前回のブログでジュライホテルの閉鎖日を1995月10日23日と記したが、私にとってのジュライホテル最後の日はその8年ほど前だった。当時、何となく世界一周を計画しており、日本からタイに渡り、フランスへダイレクトフライト。スペイン経由でアフリカ大陸に行き、その後スペインに戻り、フランス、イタリア、ユーゴスラビア、ブルガリア、ギリシャ、トルコ、イラン、パキスタン、インド、ネパールと陸路で移動した。そして、インドからタイに空路で再入国し、1カ月ほどタイ国内を旅行した後、乏しくなった旅行資金を補充するため、タイの現地企業で働くか、それともオーストラリアでワーキングホリデーを利用するかどうか迷っていた。
しかし、結局、タイでの勤務も、オーストラリア行きも実現することはなかった。オート三輪(トゥクトゥク)の交通事故で全治数カ月の大怪我をしてしまったからだ。
事故の顛末はこうだ。ジュライホテルに宿泊していた日本人6人と知り合いのタイ人女性2人でトンブリ地区のディスコに遊びに行った。深夜まで楽しんだ後、オート三輪2台に分乗。そのうちの1台に、タイ人女性2人と日本人男性、そして私が乗った。
そして、よせばいいのに、運転手2人に余計なことを言ってしまった。「どちらか早く到着した方に50バーツ余計に払う」と。
そのため、2台はほぼ路上レース。チャオプラヤ川を渡るまではよかったが、私の乗ったトゥクトゥクは、王宮前広場(サナムルアン)を少し超えたところで、曲がり切れず、大木に激突してしまった。運転手は激突の直前に飛び降りて逃走。タイ人女性2人はほぼ無傷だったが、日本人2人が重症を負うことになった。私は頭で前のプラスチック窓を突き破り、大木に激突し、脳震盪で意識をほぼ失った。もう一人も顔などに重傷を負うことになった。
結局、少し遅れて到着したもう1台のトゥクトゥクに乗った仲間に病院に連れて行かれ、翌朝、意識が戻ったが、全身激痛。呼吸すると胸に強い痛みが走った。手足は傷だらけで、足の一部がえぐれていた。
「首のレントゲンを撮影していなかった…」 ウソ…!?
担当は日本の某大学医学部を卒業したタイ人医師。脚の縫合は素晴らしい技術で行われた。日本帰国後、「素晴らしい腕だ」と日本人医師がほめていたほどだ。事故後2週間ほど入院し、その後、ジュライホテルで療養生活を送ったが、1カ月が経過しても、片頭痛と片腕のしびれがとれず、手に力が入らなかった。担当医師に相談しても、「もう少し様子をみよう」といわれるばかり。そうこうして2カ月近くが過ぎたある日、医師から「首のレントゲン撮影をしていなかった」と告げられる。「頭から大木に激突したのになぜ」と唖然としたが、検査の結果、首の第4脛骨と第5脛骨が5ミリほどずれているのが確認された。医師からは「もう少し早く確認できていれば首を引っ張るなどして元に戻すこともできた。ただ、もうすでにずれた位置で固定されてしまったため、正常な位置に戻すためには、首の後部を切開して脛骨を取り出し、人工脛骨を差し入れるしかない」と告げられる。さらに、「このままでは後遺症が出るかもしれないが、命にかかわるものではないよ」とのお言葉を受けたことで、日本に戻り、日本の医療機関で治療を受けることを決心する。ジュライホテルからタクシーでドンムアン空港に向かう時のむなしさは今も覚えている。
なお、タイでの入院中、トゥクトゥク管理会社の社長が見舞いに来て、見舞金として500バーツ(当時のレートで約1500円)を置いていった。その時、知人のタイ人は「怪我をしたのがタイ人だったら完全無視。外国人だからわざわざ来たのだろう」と話していた。
結局、日本の総合病院で数カ月間治療を受け、腕のしびれ、片頭痛は完治した。日本人医師曰く、「よくこの薬を日本に持ち込めましたね。すべて破棄してください」。また、タイで使用していた首用コルセットは「硬度が低く役に立たない」として、別のモノを使うことになった。
ところで、事故から35年ほど経過した今の状況であるが、肩が凝りやすいほかは、特に後遺症を実感していない。この点は日タイ両国の医療機関に深く感謝している。