タイに進出する日系企業にとって、人材の採用と定着は経営の根幹に関わる課題です。そのため、駐在員だけでなく、出張者・視察者にとっても知っておくべき情報となっています。
バンコクの最低賃金ですが、この30年で日給90バーツ前後から400バーツへと4倍以上に上昇し、タイの労働市場を取り巻く環境は大きく様変わりしました。かつては「日系企業だから」という看板だけで優秀な人材を集められる時代もありましたが、いまでは韓国系やシンガポール系、タイ地場の財閥系企業との人材奪い合いが激しくなっています。この記事では、タイの採用市場が30年でどう変わってきたのか、2025年時点の職種別給与相場、効果的な採用チャネルの選び方、そして採用した社員に長く働いてもらうためのリテンション施策まで、日系企業が押さえておくべきポイントをまとめて解説します。
「生産拠点」から「販売市場」への転換
タイの人材市場を理解するうえで欠かせないのが、この30年間で進出企業の性格そのものが変わってきたという事実です。1990年代は、自動車や家具、文房具、食品といった完成品メーカーの大型進出が相次いだ時期でした。2000人から3000人規模の工場を新設する企業が多く、社長から工場長、各部門のマネージャー、技術者に至るまで日本人が現地に赴任し、現場の単純作業を担う多数のタイ人スタッフを一気に採用するという時代でした。
2000年代に入ると、部品メーカーや加工業者、原材料メーカー、さらにパレット製造やフォークリフトのレンタル、外壁塗装といった製造業を支える周辺企業のタイ進出が増え、形態が多様化します。現地で経験を積んだ優秀なタイ人材が育ち、営業や経理、人事といった管理職をタイ人スタッフに任せる企業も増え始めました。
そして2010年代以降、タイは「生産拠点」から「販売市場」へと性格を変えていくことになります。中間層や富裕層が拡大するのに伴い、外食チェーンや小売、IT、サービス業の進出が急増しました。現在では工場長や副社長、さらには現地法人の社長ポストまでタイ人に任せる日系企業が増えています。
賃金水準の推移が物語る経済成長
この構造変化を裏付けているのが、賃金水準の推移です。バンコクの法定最低賃金(日給)は1990年代の約90バーツから、2025年には400バーツへと35年間で4倍超、上昇しました。タイの1人当たりGDPも1500ドル台から7000ドル台後半まで拡大したとされ、経済成長とともにタイの人々の暮らし向きも大きく変わっています。
ただ、最低賃金は全国一律ではなく、地域ごとに差がある点に注意が必要です。工業団地が集積するチョンブリ県やラヨーン県、観光地として知られるプーケット県などは400バーツと高水準にある一方、地方部では340バーツ前後にとどまる県もあります。
2025年は1月と7月の2段階で改定が実施されました。1月にはチョンブリ県やラヨーン県など一部地域が先行して400バーツへ引き上げられ、7月にはバンコク都内の全業種が372バーツから400バーツへと賃上げされました。この改定により、バンコクだけで約70万人の労働者が影響を受けたとされます。当時の中核与党であるタイ貢献党は2027年までに全国一律600バーツへの引き上げを公約しており、今後も人件費の上昇傾向が続く見通しです。ただし2026年に入ってからは物価上昇への配慮もあり、追加の引き上げはいったん据え置かれており、次の改定に向けた議論が続いている段階です。

タイ経済全体を見ると、GDP成長率は近年鈍化傾向にあります。タイ国家経済社会開発評議会(NESDC、経済政策の立案や統計分析を担う政府機関)は2026年の成長率を1.5%から2.5%の範囲、中央値では2.0%程度と予測しています。物価上昇が落ち着く一方で、家計債務の高さや少子高齢化といった構造的な課題も指摘されており、賃金上昇と経済の成熟化が同時に進む局面となっています。
転職が当たり前、タイ特有の労働文化
タイの人材市場を理解するうえで押さえておきたいのが、転職に対する意識の違いです。日本では一つの企業に長く勤めることが美徳とされる文化がまだ残っていますが、タイではキャリアアップや待遇改善のために転職を繰り返すことが一般的です。より高い給与や良い役職、あるいは自宅から近い職場を求めて、数年単位で会社を移る労働者は珍しくありません。
タイの失業率は長年にわたり1%を下回る水準で推移しており、労働者側にも比較的すぐに新しい職に就けるという意識があります。そのため転職への心理的なハードルが低く、特に若年層や優秀なエンジニア、マネージャークラスの人材ほど流動性が高い傾向にあります。企業側は欠員が出ることを前提とした採用計画を立てる必要があり、従業員が突然退職の意向を示しても慌てないよう、業務のマニュアル化や引き継ぎ体制を日頃から整えておくことが重要です。
2025年最新の給与相場を整理する
タイで採用活動を行う際には、現地の最新の賃金水準を正確に把握しておくことが欠かせません。バンコク首都圏における職種・役職別の給与相場は、おおむね次のとおりです。
- 新卒やスタッフクラス:月1万7000〜2万5000バーツ
- 中堅社員(実務経験3〜5年程度):月3万〜5万バーツ
- マネージャークラス:月6万〜10万バーツ以上
- GM(ゼネラルマネージャー、部門全体を統括する管理職。40歳前後が目安)
:月8万7000〜11万8000バーツ程度(日本円でおよそ40万〜60万円に相当)
職種によっても市場価値は大きく異なります。デジタル化やEV(電気自動車)関連投資の拡大を背景に、ITエンジニアやデジタルマーケティングの専門家は引き続き需要が旺盛で、一般的な事務職や製造業職種との給与差が顕著に現れています。日系企業で重宝される日本語スピーカーの場合、日本語能力試験(JLPT)のレベルに応じた手当を支給するのが一般的で、最上級資格であるN1を持つ人材には基本給に加えて1万〜2万バーツ程度の上乗せが必要になるケースも少なくありません。
管理職や工場長といった基幹を担う役職では、日系企業同士の競合だけでなく、給与水準の高い欧米系企業やタイの大手財閥系企業(一族経営でタイ経済の広い分野を牛耳る大企業グループ)とも人材の奪い合いになります。大手コンサルティング会社デロイトの調査によると、2025年のタイの平均賃上げ率は4.5%程度にとどまるとされる一方、企業がコスト圧力を受けるなかでもスキルの高い人材には市場以上の賃金を払う選別投資の動きが鮮明になっています。タイ労働省の統計や民間コンサルティング会社のデータを定期的に参照し、自社の給与体系を見直すことが大切です。
かつては「日系企業は給与が安い」と言われることもありましたが、現在ではマネージャークラスの給与水準は着実に上昇しています。こうした所得の伸びが、購買力を備えた中間層・富裕層の拡大にもつながっています。給与水準の上昇は人件費の増加という側面がある一方で、優秀なタイ人人材にとってはキャリアアップの選択肢が広がっていることになり、日系企業にとっては待遇面での競争力をどう保つかが今後の課題になりそうです。
「日系企業ブランド」だけでは通用しない時代へ
かつては「日系企業だから」というブランドイメージだけで、平均的な待遇を提示すれば人材を確保できた時代がありました。しかし現在は、タイのローカル企業に加え、韓国やシンガポール、ベトナムなど他国籍企業という選択肢も増え、日系企業というだけで優秀な人材が自然に集まる時代ではなくなっています。今後は「自社に入社すれば何ができるのか」「どのようなキャリアを描けるのか」「自社ならではの強みは何か」を明確に示す採用活動が欠かせません。
タイ進出の際にオーソドックスとされる体制は、日本人1人に対してタイ人4人(管理系マネージャー1人、現場系マネージャー1人、それぞれの部下2人ずつ)というパターンです。この場合、人件費の初期予算としては月額15万バーツ程度を見込んでおくのが一般的とされています。
求人媒体と採用チャネルの使い分け
タイで求める人材に効率よくアプローチするには、適切な求人媒体を選ぶことが欠かせません。タイでは日本以上に、インターネットやSNSを活用した求職活動が広まっています。
一般社員や中途採用の一般的な職種をターゲットとする場合、大手の求人ウェブサイトの利用が最もポピュラーです。ジョブズDB(JobsDB)など主要なプラットフォームには多くの求職者が登録しており、職種や経験年数で絞り込んで候補者を探せます。日系企業向けの専門求人サイトもあり、日本語が堪能な人材や日系企業での就業経験を持つ人材をピンポイントで募集したい場合に効果的です。
マネージャークラス以上の幹部候補や特殊な技術を持つスペシャリストを採用したい場合は、人材紹介会社(エージェント)を利用する企業が多くなっています。タイには日系・外資系を含む数多くの人材紹介会社があり、市場に出回らない優秀な人材を一本釣りするヘッドハンティングサービスも充実しています。費用は採用が決まった時点で年収の一定割合を支払う成功報酬型が主流ですが、要件に合った人材を効率よく絞り込んでもらえる点は大きなメリットです。
さらに、SNSを活用した採用活動も急速に広がっています。ビジネス専門SNSのリンクトイン(LinkedIn)は外資系企業を中心に広く使われており、英語が堪能なホワイトカラー層の採用には欠かせないツールとなっています。またタイではフェイスブック(Facebook)の利用者が非常に多く、求人機能や特定の職種が集まるコミュニティグループへの投稿も一般的で、比較的低コストで多くの応募を集めることができます。
定着率を高めるリテンション施策
優秀な人材を苦労して採用しても、すぐに離職されては採用コストも教育にかけた時間も無駄になってしまいます。タイでのビジネスを安定させるには、社員の定着率を高めるリテンション施策(人材の流出を防ぐための取り組み)が極めて重要です。
タイの労働者が職場を選ぶ際に重視するのは給与の額面だけではありません。福利厚生の充実度や職場の人間関係、そして昇進のチャンスがあるかどうかも大きな判断材料となります。効果的な施策としてまず挙げられるのが、明確な評価制度とキャリアパスの提示です。頑張れば給与が上がり、どの役職に就けるかが見えない職場では、社員は将来に不安を感じて他社へ移ってしまいます。定期的な面談を実施して個人の目標と会社の期待をすり合わせることが、モチベーション維持につながります。タイのある調査では、離職防止策としてキャリア開発を重視する企業が61%に達しており、将来性の見える職場づくりは必要不可欠なものとなっています。
福利厚生の面では、民間医療保険への加入補助や通勤用の送迎バスの運行、家族手当の支給が好まれます。また社員旅行や定期的な懇親会といった社内イベントを通じて、アットホームで良好な人間関係を築くことも、離職を防ぐ強い要因となります。タイの人々は職場の居心地の良さを非常に重視するため、経営陣と従業員、あるいは従業員同士のコミュニケーションが円滑な職場ほど定着率が高くなる傾向にあります。
入社後の早期離職を防ぐという観点では、選考の段階から工夫が必要です。候補者の能力や経歴だけでなく、配属先となる組織の雰囲気に合うかどうか、上司や同僚との相性はどうかといった点まで踏み込んで見極めることが、定着率を高めるうえで重要になるといいます。
経営幹部の採用に求められる資質
管理職クラス、特に現地法人の社長職を任せる採用では、候補者本人の能力だけでなく、本社側の経営方針や将来の事業展開の方向性を候補者と十分にすり合わせておく必要があります。日本からの駐在員は数年ごとに交代することが多いため、後任者が変わっても円滑に業務を引き継げる順応性も、現地の管理職に求められる資質のひとつに挙げられます。

現地の実情に即した柔軟な人事戦略を
今後成長が見込まれる分野としては、これまでの飲食店や小売に加え、ヘルスケアや医療機器関連アプリ、介護関連などの需要がさらに伸びていくとみられています。タイでは中間層・富裕層の拡大とともに健康志向が強まっているほか、少子高齢化が進むなかで高齢者向けサービスへの需要も今後高まっていくとみられ、これらの分野に強みを持つ日系企業にとっては新たな事業機会が広がる可能性があります。
一方でIT・DX(デジタルトランスフォーメーション)分野への企業進出が増えるなかで、企業側が「どのような技術を持つ人材が必要なのか」を具体的に把握できていないケースも少なくないといいます。求める技術領域を細かく整理したうえで採用活動にあたることが望ましいものの、幅広い専門知識をすべて自社だけで見極めるのは容易ではありません。人材紹介会社やコンサルティング会社など、外部の専門的な支援を活用する動きも今後広がっていくとみられます。
タイの人材市場は、工場労働力の確保から、経営を担う人材の獲得へと軸足を移しつつあります。日系企業がタイで長期的に事業を続けていくためには、賃金水準や競合状況の変化を踏まえた採用戦略の見直しが、今後ますます重要になりそうです。日本のやり方をそのまま持ち込むのではなく、現地の文化や労働者の心理に寄り添った柔軟なマネジメントこそが、タイでの採用と定着を成功させる鍵になるといえるでしょう。

