タイのデジタル経済は急速に拡大しており、2024年には約2兆4960億バーツという巨大な規模に達しました。この成長を牽引する最大のエンジンが、いまや国全体を巻き込みながら広がっているAI(人工知能)です。国家戦略、巨大IT企業による投資、そして急ピッチで進む法規制という3つの動きが同時に進行しており、タイでビジネスを行う日系企業にとっても見過ごせない変化となっています。本稿では、複数の最新情報をもとに、タイのAI市場の全体像と今後の展望、そして日系企業が取るべき対応を整理します。
国家AI戦略が掲げる高い目標
タイ政府は、AIによって経済を成長させ社会課題を解決するために、「国家AI戦略・行動計画(2022〜2027年)」を掲げています。その背景には、行政がAIを活用する準備がどれだけ整っているかを示す「政府AI準備度指数」で、タイが2021年時点で世界160カ国中59位、東アジア・ASEAN地域内でも9位にとどまっていたという事情があります。この遅れを取り戻して世界トップ50入りを目指すため、政府は次の5つの目標を打ち出しました。
- 60万人へのAIリテラシー・倫理教育の実施
- デジタルインフラ投資の毎年10%増加
- 6年間で3万人以上のAI人材の育成
- 2027年までに100件以上の研究開発を通じて480億バーツ以上のビジネス・社会的インパクト創出
- AIを活用する組織を600以上に増やすこと
対象分野は、食糧・農業、行政、医療、物流、教育、観光、保安、製造、エネルギー、貿易・金融の10分野に及びます。
巨大IT企業による投資ラッシュ
この国家戦略を後押ししているのが、世界的なクラウド大手による投資です。アマゾン(AWS)は2025年1月にタイ初のクラウドリージョン(データセンターを地域ごとにまとめた拠点)を開設し、今後15年間で50億ドル超を投じる計画を示しています。グーグルも約10億ドルを投じてチョンブリ県などにデータセンターを建設し、タイ初のクラウドリージョンを開設しました。マイクロソフトは2026年3月、ブラッド・スミス社長とアヌティン首相との会談を経て、2026〜2028年にかけて10億ドル超をクラウド・AIインフラに投資すると発表しています。TikTokを運営するバイトダンスも、タイ投資委員会(BOI)から、約38億ドル規模のデータホスティング事業への投資承認を得ました。
BOIによれば、2025年上半期だけでも、データセンターを中心とするテック関連プロジェクトへの投資申請は数百億バーツ規模に達しています。また、ある調査では、タイのデータセンター市場は2025年の約14.5億ドルから2031年には約63億ドルへ、年率27%超のペースで拡大すると予測されており、データセンター容量に占めるAI用途の割合も2024年の20%から2025年初めには28%へ上昇しました。もっとも、チョンブリ県などでは電力供給の確保が今後の課題になるとの指摘もあり、投資計画がすべて予定どおりに進むかは注視が必要です。
タイ語AIの開発と企業導入の現在地
もう一つの重要な流れが、タイ語に特化した大規模言語モデル(LLM:大量の文章データを学習し、人間のような文章を生成できるAI)の開発です。世界的なAIモデルは学習データに占めるタイ語の割合が小さく、精度に課題を抱えていました。そこで、サイアム商業銀行グループ傘下のSCB10Xによる「Typhoon」、国立電子コンピューター技術センター(NECTEC)の「Pathumma」、オープンソース(誰でも自由に利用・改良できる形で公開されたソフトウェア)の「OpenThaiGPT」、カシコン銀行系KBTGの「THaLLE」など、タイ独自のモデル開発が進んできました。
2026年4月には、これらを束ねる国家的な基盤として「ThaiLLM」の構想が示されたと報じられています。国内のデータを国外に出さずに処理できる点を強みとしており、自国のデータと人材でAIを運用する「AI主権」を重視するタイ政府の姿勢の表れといえます。
ただし、企業への実装はまだ初期段階にとどまっています。AIガバナンスセンター(AIGC)の調査では、AIを導入済みのタイ企業は17.8%にとどまる一方、73.3%が将来の導入を計画していると回答しており、関心の高さと実装の遅れが同居している状況がうかがえます。タイ開発研究所(TDRI)などは、タイのAI市場全体が2024年の480億バーツから2030年には1300億バーツへ、年率18%で成長すると予測しています。
労働市場に広がるAIの影響
AIの普及は働き方にも大きな影響を及ぼしています。タイの国家経済社会開発委員会(NESDC)の試算では、全労働者の2割強にあたる約870万人が、AIの普及によって何らかの影響を受けるとされています。このうち約220万人は事務職やカスタマーサービスなどで仕事の一部または全部が代替されるリスクを抱える一方、残りの約650万人は販売員や管理職などで、AIを「優秀なアシスタント」として使いこなす働き方へ移行していくと見られています。
実際、ハードウェア分野の雇用が約5.1%減少する一方で、ソフトウェア分野では約23.8%も急増するなど明暗が既に生じています。自ら考えて動くロボットとAIが融合した「フィジカルAI」も、製造業や物流、大学病院の医療現場で稼働を始めました。マーケティング分野では、人間が休む時間帯にAIアバターに司会をさせることで1日20時間以上のライブ配信を実現し、配信コストを90%削減しながら売上を3.5倍に伸ばした事例も報告されています。
日系企業にとって長年の課題である高い離職率についても、ある製造業の企業が富士通の支援を受けてAIを導入し、約200万点の部品と3000社の取引先データを管理する予測モデルを構築した結果、年間20億円分の在庫削減を実現するとともに、特定のベテラン社員に依存していた業務知識を資産化できたと伝えられています。
人材育成、裾野拡大と高度人材不足の併存
政府は「6年で3万人以上」のAI人材育成という目標を掲げていますが、現状では高度なAI専門人材の輩出は年間およそ1500人にとどまり、需要に追いついていないと報告されています。人材育成は、AIを開発できるエンジニア1万人、産業応用ができる人材2万人、基礎的なAIリテラシーを持つ国民数百万人という3層構造で捉えられており、大学での教員研修や計算資源の補助対象を20校から100校へ広げる計画も進んでいます。また、民間では、マイクロソフトが教育省・労働省と協力して過去2年間で200万人以上のタイ人にAIスキルを学ばせ、60万人以上の高校生に学習環境を提供し、15万人の社会人にはタイ語による専門コースを用意するなど、政府目標を大きく上回る規模の育成を実施しています。
利用する側の裾野は世界的に見ても急拡大しており、求人サイトJobsDBとボストン・コンサルティング・グループなどの調査では、タイの労働者の62%が生成AI(文章や画像などを自動でつくり出すAI)を仕事や生活で使っていると報告されています。PwCタイランドの調査でも、過去1年に仕事でAIを使った人は72%にのぼり、世界平均の54%を大きく上回りました。マイクロソフトの調査によれば、日常的にAIを使いこなす「本格利用者」の割合は2025年初めの9.1%から2026年第1四半期には12.4%へ伸び、その増加ペースは世界2位とされています。
つまりタイは、使う側の裾野は急速に広がる一方、作る側や導入を設計できる人材が不足するという構造を抱えているのです。
AI法制の最新動向、施行はまだこれから
タイでのビジネスを考えるうえで見落とせないのが、法規制の動きです。ここで一点、正確に整理しておく必要があります。2026年8月時点で、タイには施行済みの包括的な「AI法」はまだ存在しません。中心となるのは、タイ電子取引開発機構(ETDA)が2026年7月に公表した最新のAI法草案で、意見公募(パブリックコメント)が同年8月中旬まで実施されました。この草案はEUのAI法を参考にしたリスクベースの枠組みで、AIを以下の3段階に分類しています。
- 潜在意識に働きかけて行動を操作するAIや、不当で広範な差別につながるAIなどの「禁止AI」
- 国家安全保障や保健医療、環境、エネルギー、通信、運輸、公益事業などに関わりを持つなどの理由で将来的に政令で指定される「高リスクAI」
- 政令に基づいて届出・登録・許可が求められる「指定AIシステム」
画像・音声・動画を生成するAIの開発者、機微な話題に関する生成AIコンテンツの発信者、プラットフォーム事業者には、それぞれ透明性の確保やAI生成である旨の表示が義務づけられる見込みです。タイ国外の事業者であっても、タイの利用者に影響を与えるサービスを提供する場合は対象となり、現地に代表者を置く必要がでてくるかもしれません。違反時の行政制裁金は1回あたり100万〜500万バーツとされ、悪質な場合は裁判所命令によるサービス停止や、インターネット事業者を通じた遮断も想定されています。
提供者・利用者は過失の有無にかかわらず損害について責任を問われる「厳格責任」の考え方も盛り込まれており、成立すれば主要な規定は公布と同時に、リスク管理などの規定は180日後に施行される見通しです。法律専門家の間では、今後1〜3年程度で正式な法制化に向かうとの意見で一致しています。
さらに、法律の成立を待たず、分野ごとのルール整備は先行して進んでいます。消費者保護委員会事務局(OCPB)は2025年7月にAI生成広告の表示義務を告示し、個人情報保護委員会(PDPC)は2026年2月に「AIの開発・利用における個人データ保護ガイドライン案」を公表。また、国家サイバーセキュリティ庁は2025年9月にAIシステムのセキュリティ指針を発表しました。裁判所や中央銀行などの規制当局も独自の指針を示しており、2019年制定の個人情報保護法(PDPA)とも密接に結びついています。本人の同意なく個人データをAIの学習に使うことは厳しく制限されているため、複数の規制を重ねて確認する必要があります。
行政サービスと日常生活へのAI浸透度合い
厳しいルール整備が進む一方で、タイ政府自身もAI活用を積極的に推進しています。法制委員会(OCS)はマイクロソフトのAI技術を使い、7万件の法律を自動で比較・分析する「TH2OECD」を開発し、人手なら7〜10年かかる作業を半年で終える効率化を実現しました。公共部門開発委員会事務局はSCBXグループと提携し、タイ語LLM「Typhoon」を使った行政向けチャットボットの試験運用を開始しています。教育分野でも、学習支援チャットボット「RISA」が全国74県300校超、9700人以上の生徒に利用されています。
タイ政府はクラウド・ファースト方針(行政システムを自前で持つのではなく、クラウドサービスの活用を優先する方針)を掲げ、BOIはデータセンターやAI関連投資に法人税8年免除などの優遇措置を用意して民間投資を呼び込んでいます。日常生活でも、先述のとおり労働者の62%が生成AIを利用しているように、タイにおけるAI浸透は世界的に見ても高い水準にあり、銀行アプリやECサイトのチャットボット、翻訳、学習支援などに利用が広がっています。
一方でマイクロソフトの分析では、製造業や農業、医療、教育を中心に、人口の87.6%はまだ日常や仕事でAIを使っていないとされており、都市部のホワイトカラーと地方・現場労働との間には大きな利用格差が残っています。AI生成コンテンツへの信頼性の低さや、誤情報・詐欺への不安も、普及を妨げる要因として指摘されています。
日系企業の実務対応(製造業)
製造業では、予知保全(設備が故障する前に兆候を検知して対処すること)や、画像検査による不良品検出、需要予測の高度化などが有望な用途とされており、2030年までにAI導入率は15%程度まで高まると見込まれています。労働力不足と人件費上昇、自動車産業のEV化のような構造転換が重なるなかで、AIと自動化は「コスト削減の選択肢」から「操業を維持するための必須投資」へと位置づけが変わりつつあります。
一方で、製造業の約65%がデータの品質を、同程度の企業がインフラの不備を導入の障害として挙げているのも実情です。日系企業に特有の課題としては、①投資判断の権限が日本本社にあるため意思決定に時間がかかること、②日本語とタイ語を橋渡しできる現地人材が不足していることーーが挙げられています。実務的には、①投資回収が読みやすい用途から小さく始めて効果を数字で本社に示すこと、②生産データの整備を先に進めること、③既存のタイ人エンジニアを社内で育成することーーが現実的な道筋といえます。
個人情報保護法への対応やサイバー攻撃への備え、特定ベンダーへの過度な依存の回避、雇用調整を労務トラブルにしないための計画的な再教育も欠かせません。
日系企業の実務対応(非製造業)
商社や物流、金融、小売、人材、コンサルティングなど非製造業の日系企業にとって最大の変化は、タイ語の壁が急速に低くなることです。問い合わせ対応や契約書の下訳、広告文作成、会議の要約といった業務は実用水準に達しつつあり、大幅な効率化が見込めます。
反面、翻訳や仲介そのものを価値としてきたサービスは、顧客が自らAIで代替できる部分が増えるという脅威にもさらされています。そのため、①自社の業務を「AIに任せられる定型部分」と「信頼関係の構築や交渉など人でなければならない部分」に仕分けたうえで、浮いた人員と時間を後者に振り向けること、②顧客データを外部のAIツールに無断で入力させない社内ルールと教育を行うこと、③全社員への基礎的なAIリテラシー研修を早期に行うことーーが少ない投資で効果の出やすい打ち手といえます。
AI対応は攻めと守りの両輪で
タイのAI市場は、政府による強力な推進、メガテック企業の巨額投資、そして急速に整備が進む法規制という3つの要素が絡み合いながら進化を続けています。タイでビジネスを行う日本人ビジネスパーソンにとって、AIはもはや「あると便利な道具」ではなく、競争に勝ち抜くための経営の武器になりつつあります。在庫管理や書類翻訳など身近な課題からスモールスタートし、AIを組織の「相棒」として定着させていくことが極めて重要です。
同時に、まだ施行前とはいえ急ピッチで整備が進むAI法制やデータ保護のルールを正しく理解し、先回りして備えておくことも欠かせません。この厳しい環境にいち早く対応できれば、タイ国内はもちろん、同様に規制が厳格化する他の海外市場に進出する際の強みにもなるはずです。


