タイの自動車産業はかつて、「デトロイト・オブ・ジ・イースト(東洋のデトロイト)」と称されてきました。デトロイトとはアメリカの自動車産業の聖地であり、同じ呼び名がタイに与えられてきたのは、半世紀以上にわたって日系メーカーが市場の約80〜90%を握り続けてきたからです。ところが2020年代に入り、この構図は大きな転換期を迎えています。
タイ政府が強力に推し進める電気自動車(EV)振興策「30@30」と、それに付随する「EV 3.0」「EV 3.5」というインセンティブ(補助金・優遇税制)パッケージが、中国の主要な新エネルギー車(NEV)メーカーをタイ市場へと引き寄せました。2020年にわずか3.2%だった中国メーカーの乗用車市場シェアは、2025年には22.1%へと急拡大しています。タイ工業連盟(FTI)によれば、2025年のバッテリー式電気自動車(BEV)年間登録台数は12万301台を超え、前年比80%増という驚異的な数字を記録しました。
一方で、日系自動車メーカーは厳しい局面に立たされています。日産自動車は2025年に第1工場を閉鎖し、三菱自動車も一部工場を休止するなど、生産体制の縮小が続きます。FTIの試算では、2025〜2026年にかけて10万人以上の自動車関連労働者が雇用の危機にさらされる可能性があると指摘されています。また、タイ自動車部品製造業協会(TAPMA)の会員企業650社のうち、2023年に24社、2024年に6社が閉鎖しました。自動車関連のサプライヤーへの波及は深刻です。
本稿では、タイのEV市場に参入している主要中国メーカー10社の進出経緯と現状、そして2026年の政策転換を見据えた今後の動向を詳しく解説します。
タイ政府のEV普及政策——「3.0」から「3.5」へ
タイ国内のEV普及の背景には、政府の明確な産業ビジョンがあります。国家電気自動車政策委員会(EVボード)が掲げる「30@30」は、2030年までに国内の自動車生産台数の少なくとも30%をゼロエミッション車(ZEV)にするという目標です。
この目標を実現するため、2022年から「EV 3.0」と呼ばれる補助金制度が始まりました。最大15万バーツの購入補助金や物品税・関税の大幅な免除により、中国メーカーを中心とした外資系EVメーカーがタイに大挙して参入し、市場は一気に活性化しました。
そして2024年からは「EV 3.5」へ移行しています。EV 3.0が「市場の早期立ち上げ」を狙ったものだったのに対し、EV 3.5は「現地生産の定着」へフェーズを移したものです。最大補助金額は10万バーツへ引き下げられ、2026年以降は物品税率が2%から10%に上昇します。また、補助金を受けるためには2026年に「輸入1台につき現地生産2台(1:2)」、2027年には「1:3」という厳しい生産義務を果たさなければなりません。そして、輸入税免除の終了に先立ち、各メーカーは2024〜2025年に輸入した台数の2倍を2026年末までにタイ国内で生産することが義務付けられています。
この政策転換により、2026年には輸入BEVの価格が10万〜20万バーツ程度上昇しています。メーカー各社は「価格競争」から「現地生産によるコスト管理と付加価値の提供」へ、戦略の軸足を移す局面に入ったとされていますが、先行き不透明感は依然として存在します。
なお、2025年第1四半期の電動車(xEV)全体の販売は前年比7%増で、総販売台数の40%超を占めるまでになっています。ハイブリッド車(HEV)がxEV市場全体の62%を占めており、消費者はBEVとICE(内燃機関車)の間の選択肢として注目しているようです。
中国メーカー主要10社の進出状況と今後の展望
タイ市場に参入している主要中国メーカー10社について、それぞれの戦略と現状を見ていきます。
BYD(比亜迪)——市場シェア3分の1を握る絶対王者

BYDは現在、タイのBEV市場において38%前後のシェアを持つ最大手メーカーです。同社の強みは、バッテリー(ブレードバッテリー)から半導体まで自社製造する垂直統合型のサプライチェーンにあります。部品調達から組み立てまでを一貫して管理できることが、価格競争力と品質管理の両立につながっています。
2022年にレヴェ・オートモーティブ(Rêver Automotive)を総代理店としてタイ市場に参入したBYDは、主力車種の「ATTO 3」を皮切りに「Dolphin」「Seal」を相次いで投入し、日系ブランドが手薄だったBEVセグメントを席巻しました。2024年7月には、タイ東部ラヨーン県(バンコクから約200km東に位置する工業地帯)に年産15万台規模の工場を稼働させ、タイをASEANにおける右ハンドル車の生産・輸出拠点としています。2025年通年の販売台数は登録ベースで約4万台前後に達し、市場をリードし続けています。
ただし、急成長には副作用もありました。2024年に実施した大幅な値下げ戦略が既存オーナーの強い反発を招き、中古車の下取り価格(リセールバリュー)が大幅に下落したのです。ブランドへの信頼性に傷がついた面は否めません。また、急速な普及にサービスセンターの整備が追いつかず、アフターサービスの質の維持も課題となっています。BYDの積極的な値下げ後のアフターケア対応が早期購入者の反発を招いたとの指摘のほか、グローバルでの11万5000台超に及ぶリコールへの対応も加わっており、消費者の信頼回復が喫緊の課題となっています。
2026年以降は、EV 3.5政策に基づいた現地生産モデルへの完全移行を進める計画です。また、BEVだけでなく、市場ニーズが高いプラグインハイブリッド車(PHEV)の投入も視野に入れており、トヨタなど日系メーカーが強みを持つハイブリッド車市場への進出も狙っています。
MG(上海汽車/SAIC)——タイBEV普及の先駆者

上海汽車(SAIC)傘下のMGは、タイにおけるBEV普及の立役者であり、中国メーカーの中で最もタイ市場に深く根ざしたブランドです。
タイの巨大財閥・CPグループ(チャロン・ポカパン・グループ:食品・流通・通信を中心にASEANで幅広く事業を展開するタイ最大の財閥)との合弁会社「SAIC Motor-CP」として、2019年にタイ初のBEVの一つである「ZS EV」を導入。それまで「高価な贅沢品」だったEVを手の届く価格帯に引き下げた功績は大きいとされています。2025年には国内販売と輸出を合わせて約3万5000台を記録し、前年比44%増という高い成長率を維持しています。また、「MG4 Electric」はその優れた走行性能とデザインで若年層の支持を集め、欧州市場への輸出モデルとしても成功を収めています。
課題としては、先行者ゆえに初期モデルのバッテリー劣化や部品供給の遅れに関する苦情が散見されることです。後発のBYDや長安汽車(Changan)の猛追を受け、中価格帯でのシェア争いも激化しています。これに対し、MGは「EV生涯保証」などの大胆なサービス施策で対抗していますが、利益率の維持が課題となっています。
2026年以降は「グローバル+ローカル」を融合させた「GLOCAL」戦略を掲げ、半固体電池(Semi-solid battery)搭載モデルやプレミアムブランド「IM」の導入を計画しています。また、タイをASEANの生産拠点にとどまらずR&D(研究開発)の拠点としても活用し、現地ニーズに特化した「インテリジェント・モビリティ」の展開を加速させる方針です。
ORA(長城汽車/GWM)——先行者から次世代へのシフト

長城汽車(GWM)は2020年、ゼネラルモーターズ(GM)のラヨーン工場を買収し、中国メーカーによるタイ本格進出の先鞭をつけました。2025年の顧客満足度指数(CXI)でトップ3に入るなど、サービス面での評価も高まっています。
参入当初は猫をモチーフにしたユニークなデザインの「ORA Good Cat」を投入し、BEVを「ファッションの一部」として訴求することに成功しました。2024年にはタイ国内での現地生産を開始し、タイ製BEVのパイオニアとしての地位を固めました。しかし2026年初頭、同社は戦略的な理由からGood Catの生産・販売終了を発表。これはEV 3.0の生産義務を完遂した後、より収益性の高い次世代モデルへ移行するためです。ただ、Good Catの販売終了は一部ファンに衝撃を与え、部品の継続供給に対する不安も生じています。このほかにも、依然としてソフトウェアの不具合やセンサーの過敏な反応といった初期不良への指摘も残っています。
今後は大型で付加価値の高い「ORA 5 SUV」を中心としたラインナップへ移行します。GWMが得意とする「HAVAL」ブランドのハイブリッドSUVとの相乗効果を狙い、タイ全土に展開するスーパーチャージング・ステーション(G-Charge)ネットワークを活用した「ライフスタイル型EVエコシステム」の構築を目指します。
NETA(哪吒汽車)——深刻な経営危機と政府の追及

ホゾン・オート(Hozon Auto)が展開するNETAは、タイ市場で最も安価なBEVの一つとして、50万バーツ台という価格設定でバイクからの乗り換え層を惹きつけ、都市部の一般層から支持を集めました。2024年3月にはバンコク都内のバンチャン・ジェネラル・アセンブリー(Bangchan General Assembly)と提携した工場で主力モデル「NETA V-II」の生産を開始し、中国国外では初の生産拠点となりました。
しかし現在、NETAは深刻な経営危機に直面しています。2025年6月時点で委託工場が稼働を停止し、2024年の販売台数は前年比65%減という壊滅的な落ち込みを記録しました。中国本国の親会社の財務悪化が響き、タイ国内でもスペアパーツの供給が深刻な不足に陥っています。さらに、タイ財務省はEV支援策(EV 3.0)に基づく現地生産義務を果たせなかったとして、20億バーツ超(日本円で約100億円相当)の補助金返還を求める提訴に踏み切りました。タイ国内では400人規模の人員削減も行われています。
生き残りの鍵は、現地生産の安定化と部品供給体制の抜本的な改善です。今後は、より上位のSUVモデル「NETA X」の投入などで「低価格車」のイメージからの脱却を図る必要があります。インドネシアやマレーシアへの輸出拠点機能を維持できるかどうかが、投資家や政府からの信頼回復の試金石となっています。
Changan(長安汽車)——後発から急追するビッグ4の一角

長安汽車は中国の主要自動車メーカー「ビッグ4」の一角として、2023年末に満を持してタイ市場へ参入しました。
2025年5月には東部ラヨーン県に年産10万台規模の工場を稼働させました。この工場は現地調達率60%を達成し、1000人以上のタイ人を雇用するなど、現地化への強いコミットメントを示しています。展開する「DEEPAL(ディーパル)」ブランド(S07、L07)は、テスラを彷彿とさせる未来的デザインと高い質感で、2025年のSUV登録台数で首位を記録するなど、後発ながら爆発的な人気を誇ります。
一方、急速な販売増に対して認定サービスセンターの数がまだ不足しており、メンテナンスの予約待ちが生じています。また、ハイエンドブランド「AVATR(アバター)」の導入も進めていますが、150万〜200万バーツというプレミアムセグメントで欧州ブランドの牙城を崩せるかが課題です。
「In Thailand, For Thailand」戦略を掲げ、今後3年間で7つの新モデルを投入する計画です。タイを右ハンドル車(RHD)のグローバルハブと位置づけ、欧州・オセアニア・周辺ASEAN諸国への供給を加速させています。2030年までに海外売上120万台という目標達成において、タイ拠点は最重要の役割を担っています。
Aion(広州汽車/GAC)——タクシー市場から攻める全方位戦略

広州汽車(GAC)傘下のAionは、2023年の参入発表からわずか1年足らずで工場稼働に漕ぎ着けた、驚異的なスピード感を持つメーカーです。
2024年7月にラヨーン工業団地に第1期工場を完成させ、「Aion Y Plus」の現地生産を開始しました。同社は23億バーツを投資し、段階的に年産5万台まで引き上げる計画です。特に広い室内空間を活かしたタクシー車両「Aion ES」の採用が進んでおり、公共交通の電動化という側面で強みを発揮しています。
タクシーやフリート販売での存在感がある一方、一般消費者向けのブランドイメージの構築が遅れているという課題があります。2026年からの補助金削減に伴い、主力モデルの価格が8万バーツ程度上昇する見込みで、個人ユーザーの囲い込みが課題となります。
今後は高級ブランド「HYPTEC(ハイペック)」のSUV「HT」投入によりブランドのプレミアム化を狙います。また、小型ハッチバック「Aion UT」の投入で若年層や都市部のエントリー層も取り込む全方位戦略を展開し、タイを拠点にASEAN全域への販売・サービス網を広げる「ローリング・デベロップメント」方式を追求する方針です。
Zeekr(吉利汽車/Geely)——「安価な中国車」イメージを払拭

吉利(Geely)グループのプレミアムEVブランド「Zeekr(ジークル)」は、中国車に対する「安価・低品質」というイメージを完全に払拭する戦略をタイで展開しています。
2024年7月にコンパクトSUV「Zeekr X」を投入してタイ市場に正式参入し、販売パートナーには高級車販売に長けたMGC-ASIAを起用。富裕層をターゲットにしたプレミアムなショールーム展開を行っています。2025年には先進的な走行支援技術と独創的なデザインが高い評価を受け、高級BEVセグメントでの地位を確立しつつあります。
懸念されるのは、Geelyグループ内でのブランド再編(ZeekrによるLynk & Coの吸収合併や、Geely AutoによるZeekrの完全子会社化)が進んでおり、経営体制の変化がタイ事業に与える影響です。また、中国本国でのモデルチェンジのサイクルが極端に早く、初期購入者のモデル旧式化に対する不満をどう管理するかも課題です。
2026年以降はフラッグシップSUV「Zeekr 8X」や、最新のNvidia Thor ADASチップ(高度な自動運転を支える半導体)を搭載したモデルの投入を計画。価格競争には参加せず、スマート技術による徹底した差別化を推進し、日欧の伝統的なプレミアムブランドからの乗り換えを促進する方針です。
Chery(奇瑞汽車)——「Omoda & Jaecoo」で再挑戦

奇瑞汽車(Chery)は2009年にタイ市場への参入を試みたものの、信頼性の低さなどを理由に撤退した経緯があります。今回は17年の時を経て、国際市場向けブランド「Omoda(オモダ)」と「Jaecoo(ジャクー)」を掲げて再上陸を果たしました。
2024年にタイへの投資を促進・支援する政府機関であるタイ投資委員会(BOI)から投資承認を受け、東部ラヨーン県に年産5万台規模の工場建設を開始しました。ここではBEVの「Omoda C5 EV」や、オフロード志向の強いSUV「Jaecoo J6」を展開しています。2025年11月にはタイの電動車販売で月間首位を記録するなど、順調なスタートを切りました。
ただし、2026年2月に予定されていた工場の開所式が会長の不測の事態により急遽延期されるなど、運営体制の安定性に疑問符が付く出来事もありました。2009年の失敗のイメージを完全に払拭するには、長期的なアフターサービスの継続性を示す必要があります。
今後は2028年までに生産能力を8万台へ拡大し、BEVだけでなくハイブリッド車(HEV)の生産も行う計画です。タイ‘国内30カ所以上のショールーム網と、マレーシア・インドネシアとも連携したASEANサプライチェーンを構築する方針を示しています。
XPeng(小鵬汽車)——AIとソフトウェアで勝負するスマートカー

中国の新興EV3強の一つであるXPengは、テスラを最大のライバルと見据え、ソフトウェア定義車両(SDV)としての価値をタイで提供しています。
2024年3月、タイ国営石油公社(PTT)傘下のアルンプラス(Arun Plus)およびMGC-ASIAとの合弁により参入しました。主力SUV「G6」は、800V高電圧プラットフォームによる超急速充電機能を備え、充電インフラへの不安を抱くタイの消費者に強いインパクトを与えました。2025年にはMGC-ASIAの販売ネットワークを通じて、プレミアムセグメントでの販売を伸ばしています。
課題は高度な自動運転機能(XPILOT)やインフォテインメントシステムのタイ語対応と、現地の地図データや交通法規への完全なローカライズです。先進技術に感度の高い層には響くものの、保守的な富裕層にとって「ブランドの歴史と伝統」が欠ける点は、欧州ブランドからの顧客獲得における壁となっています。
PTTの充電ネットワーク「EV Station PluZ」との連携により、購入者に専用充電サービスを提供するなど、エコシステム全体での優位性を築く方針です。2026年以降は7人乗りMPV「X9」などの大型モデルを導入し、大家族の多いタイのニーズに応えるラインナップの拡充を図ります。
JAC(江淮汽車)——商用EVで独自ポジションを確立

乗用車市場で激しい競争が続く中、JAC(江淮汽車)は物流・産業用BEVという独自のポジションを築いています。
2025年12月、DCHモータース(DCH Motors)をタイ国内の独占代理店に指名し、正式に参入を発表しました。主力は物流・配送に適した電動ライトトラック「UrbanMover N90」で、106.95kWhという大容量バッテリーを搭載し、48分での急速充電を可能にしています。
商用車は乗用車以上に稼働率と部品の即納体制が求められます。タイの地方部における大型EV向けの充電インフラは依然として不足しており、長距離配送での活用には制限があります。それでも、タイ政府がe-busやe-truckの導入を推進しているという政策的追い風を活かし、企業のESG(環境・社会・企業統治)投資需要を取り込む戦略を描いています。ピックアップトラックのBEV版や鉱山・プランテーション向けの特定用途車両の投入も計画しており、商用EVのリーダーとしての地位を狙っています。
急成長の陰に潜む4つの構造的課題
急速な普及の裏で、無視できない課題が業界全体に広がっています。
第一はアフターサービスの脆弱性です。NETAが直面した部品不足と財務不安は、中国車全体への不信感につながりかねません。タイ政府は、サービス網や部品在庫の基準を満たさないメーカーに対して輸入承認を取り消すなど、厳しい規制を検討し始めています。
第二はリセールバリューの崩壊です。2024年のBYDによる大幅値下げは、中古車市場におけるBEVの評価を著しく低下させました。タイの消費者は通常5〜7年で車を乗り替えるため、下取り価格の不透明さは長期的な普及の大きな障壁となっています。クルンシー銀行の調査によれば、EVの価格戦争はしばらく続く見通しでしたが、2025年3〜4月のモーターショー期間中には値引き幅が2.7%程度に縮小し、価格の安定化の兆しが現れ始めています。
第三は充電インフラの地域的な偏りです。バンコク首都圏では整備が進んでいますが、地方や長距離ルートでは急速充電器(DC)が依然として不足しています。イプソスの2025年調査によれば、タイのドライバーの60%が「航続距離とバッテリーへの不安」を最大の懸念事項として挙げています。さらに、タイ特有の酷暑や洪水といった気候条件下でのバッテリー性能維持に対する懸念も根強く残ります。
第四は人材不足と技術教育の遅れです。BEVの複雑な高電圧システムやソフトウェアを扱える熟練メカニックが圧倒的に不足しています。SAICなど一部のメーカーは現地の大学と提携して教育施設を設立するなど対策を講じていますが、人材供給不足の解消には数年を要する見込みです。
消費者がEVを選ぶ理由も変化しています。かつての「とにかく安い」から「テクノロジーと体験」への進化です。高度な運転支援システム(ADAS)、大型タッチスクリーン、音声操作、V2L(車から電力を取り出す外部給電)機能といった先進装備は、同価格帯の日系車を大きく上回っています。2026年3月25日から4月5日までバンコク近郊で開催されたタイ最大級の自動車展示会「第47回バンコク国際モーターショー2026」では、上位10ブランドのうち中国系が8ブランドを占めました。
関税32%を求める緊急提言と2026年以降のシナリオ
こうした状況の中、タイの自動車・自動車部品関連10団体は2026年5月14日、中国製BEVに対して32%の輸入関税を課すよう政府に求める提言書を提出しました。EV 3.5スキームが終了する2027年以降、国内市場が安価な中国製BEVに席巻されるとの強い危機感がこの背景にあります。
中国メーカーはASEAN-中国自由貿易協定(ACFTA)のもと関税ゼロでBEVを輸入できますが、日系EVには20%、韓国系EVには40%の輸入関税が課されており、競争環境は明らかに不均衡です。
業界関係者が特に警戒するのは、EV 3.5スキームの最低要件を満たした段階で、中国メーカーが国内生産を大幅に縮小または停止する「出口戦略」です。タイEV協会(EVAT:電気自動車の普及・政策調整を担う業界団体)の幹部は「そうした動きが起きれば、タイのBEV製造業はもとより、部品・サプライヤー各社にとっても深刻な打撃となる」と指摘します。なお、現在、タイのEV業界サプライヤーは約1700社を数え、FTI(タイ工業連盟)の傘下にあります。
2026年以降の展望ですが、中国メーカー各社は単なる「組立工場(CKD)」から、バッテリーセル・モーター・インバーターなどの主要部品をタイ国内で製造する「本格的な製造ハブ」への転換を急いでいます。また、国内の供給過剰を避けるため、タイ製の右ハンドル車をASEAN・オーストラリア・欧州へ輸出する戦略も鮮明になっています。タイ政府も「輸出1.5倍換算ルール」でこれを後押しします。
さらに、BEV一辺倒の戦略はリスクが高いという認識から、BYDや長安汽車、Cheryなどはタイ国内でハイブリッド車(HEV/PHEV)の生産・販売方針を発表。KPMGタイの調査によれば、2030年にはBEVが総販売台数の約29%に達すると予測される一方、現地生産義務の強化によって中国メーカーのコスト構造が変化し、大量生産で培った価格競争力が弱まる可能性もあると指摘されています。
タイにおける中国メーカーの進出は、「安価な輸入車の流入」というフェーズを終え、タイの基幹産業である自動車産業そのものを再定義する段階に入りました。2026年以降に生き残るメーカーは、EVという「ガジェット」を売るだけでなく、タイの過酷な気候に耐えうる信頼性、安定したリセールバリュー、そして強固なアフターサービス網を提供できる「信頼される自動車メーカー」へと脱皮した企業だけとなる見通しです。タイは今や、中国製NEVがグローバルブランドへと昇華できるか否かを占う、世界で最も重要な実験場ともなっています。
